記憶【上】
2007-01-23


禺画像]

 手に持ったメモから目を離し、俺は一軒の家を見上げた。
 ここが?
 この辺りは所謂高級住宅地って奴だ。その家は俺にしてみれば普通じゃないくらい大きいが、周囲と比べてみれば大して変わる事の無い、まぁ要するに普通の家だ。間違いじゃないかと何度も手の中のメモを確認した後、俺はおそるおそる門の横のベルを鳴らした。
「ええ、滝本さんから話は伺っています。どうぞ」
 インターフォンから声が流れると同時に、門の鍵がかちりと音をたてた。

 白衣の男に招かれるまま俺は玄関から部屋に通された。革のソファーを指し示される。座るとまるで落っこちてしまうんじゃないかと思うくらい尻が沈む。
「あの、ここって本当に」
「ええ、病院ですよ」
 改めて俺は周りを見回した。病院のような設備なんてまるで無い。家具は案外少なく部屋はすっきりとしているが、見るからに高級な調度品が根っからの金持ちの家という雰囲気を醸し出している。
「レストランでもあるでしょう、予約客しか取らない隠れ家のような所が。それの病院版だとでも思って下さい。少人数の患者さんを恵まれた環境でじっくり診察したい、それが僕の理想でしてね」
 向かいに座った男は俺と対して年も違わないように見える。いいご身分だ。穏やかな微笑みにつられるように俺も口の端で笑った。
「滝本さんから話は伺っています。今日はまず、詳しくお話を聞かせて頂きたいと思いましてね」
「はあ」
 金持ちってのは、よくわかんねぇや。沈み込んだ尻を居心地悪そうにもぞもぞとさせる俺を見て、男の銀縁眼鏡の奥の目が笑ったように見えた。

 最近仕事が忙しくて疲れが取れない、肩が痛くて夜も眠れない、そんな至極ありふれた事を恵子に言ったのが間違いだった。あいつ妙に心配しやがって、深刻な病気だったらどうするんだなんて泣きそうになったもんだから、つい病院に行くなんて約束してしまったんだ。恵子は知り合いの医者を紹介すると言って俺にここの住所を渡した。俺が一人じゃ病院に行かない事を知っているから。
 全く、心配性にも程があるって。
 俺はポケットの中からもう一度メモを取り出した。ここの住所、今日の日付と時間、他には何も無いけれど、恵子の丸みを帯びた文字が愛おしい。

「体調が悪いと伺いましたが」
「ああ、あいつが……恵子がオーバーに言ってるだけで、疲れが取れない、肩こりで夜眠れない、よくあることでしょ?」
「確かによくある症状ですが、そういうありふれた症状に深刻な病気が隠れているというのも、ありがちな事なのですよ。こちらも滝本さんに頼まれた手前、一通り検査はさせて頂きます」
「検査?」
「ああ、代金は心配しないで下さい。全て滝本さんから頂いていますので」
 全く、恵子らしいや。俺は思わずにやっと笑ってしまった。医者はそんな俺に気付いていない様子で俺の前に座り直した。
「では、一通り問診を行わせて下さい。症状が出たのはいつ頃から」
「疲れてるのはずっと疲れてるんですけどね、肩こりは一週間くらい前からかな」
「どのようなお仕事を」
「工場のラインですよ。たまんないですね、毎日毎日同じ事の繰り返し。同じ姿勢で朝から晩まで。家に帰ったら寝るだけ。残業と休日出勤が無い事だけが取り柄ってところで」
「休日は主にどんな事を」
「そりゃあ……」
 一瞬言いよどんだ俺を見て医者が意味ありげに微笑んだ。
「デートですか」
「え、まあ」
「付き合いはじめたのは、いつ頃から?」
「え?」
 何か言いかけた俺を医者が遮った。

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