記憶【上】
2007-01-23


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「質問がプライベートに踏み込むかもしれませんが、よろしければお願いします。これは私の個人的な考えですが、疲れ等の不定愁訴は患者の生活パターンの乱れから来ている事も多く、生活指導の為にプライベートに踏み込む事も必要なのです。あなたのお話によると平日は比較的規則正しい生活を送っているようだ。休日の過ごし方に改善のポイントが見いだせるかもしれません。あ、勿論、差し支えなければで結構なのですが」

 俺と恵子が付き合いはじめて、もう一年になる。
 もともと不釣り合いな二人だ。しがないライン工の俺と「お嬢様学校」なんて呼ばれるF女子大に通う恵子に、接点なんてあるはずは無かった。
 出会いはまさに奇跡だった。朝の駅でたまたま拾ったパスケース。その中には定期券と一緒にF女子大の学生証が入っていた。少しでも早く落とし主「滝本恵子」に、と俺は仕事をサボってF女子大に出向いた。
 やっとの事で探し当てた恵子の反応と言ったら! 耳まで真っ赤に染めて、パスケースを差し出す俺と目も合わせられない様子だった。
 多分、俺はあの時から恵子の事が好きだったんだと思う。
 パスケースを警察に届けていたら俺達が出会う事なんて無かったんだと思うと、俺は恵子のパスケースにいくら感謝したって足らない。
 そして次の日、電車に乗り込む俺に微かに合図を送る女性がいた。恵子だ。
 まさか同じ電車に毎日乗っていたなんて。俺は神様に感謝した。それから毎日、恵子の乗っている車両に俺が乗り込み、俺達はぎこちないながらも少しずつ話をするようになっていった。二人が一緒にいられるたった二駅の区間は次第に俺にとって、俺達にとって大事な時間になっていった。

「なるほど」
 医者が感心したようにため息をついた。
「では、休日はいつも滝本さんと?」
「会えない日があると恵子が寂しがって、だから休日はいつも恵子と」
「滝本さんとはうまくいっているのですね」
「……まあ」
「なるほど」
 医者は軽く頷くと俺に笑顔を返した。
「休日、滝本さんとどのように過ごされているか、伺ってよろしいでしょうか? あ、勿論、差し支えない範囲で」
 俺は差し支えがあるかないかなんて関係なくなっていた。要するに、もっと惚気たくなったのだ。

 疲れている俺に気を使っていたのかもしれない。恵子はあまり出歩くのを望まなかった。恵子とのデートは大抵一人暮らしの俺の部屋の中だった。
 ままごとのようなデートを恵子は望んだ。料理をした事も無いくせに作ると言い張った挙げ句、目玉焼きを真っ黒に焦がしたりする。しかし俺にとってそれは世界一おいしい目玉焼きだった。
 恵子は俺を家に呼ぼうとはしなかった。その理由はじきにわかった。初めて恵子の家を見た時の俺の驚きようを恵子が悲しげに眺めていたのを、俺は今でも思い出す。恵子は正真正銘のお嬢様だった。俺なんかは近寄っただけで捕まっちまいそうだ、ふざけてそう言ったら恵子は本気で怒りだした。
「ひどい。今こうして出会って、好きになって、一緒にいるのに」
 近くにいるのに遠くなるみたい、恵子はそう言って俺の袖をぎゅっと掴んだ。恵子の髪はいい香りがして、たまらずに抱きしめた恵子の体はとても柔らかだった。
 頼りなく細い四本の足で支えられた狭いパイプベッドの上で俺達は抱き合った。甘いキスの味を、切なげな吐息を、暗がりで見た恵子の胸の白さを、俺は片時も忘れた事が……。

「どうかなさいました?」
 気がつくと医者が俺の顔を覗き込んでいた。俺は慌てて頭の中から恵子の裸を追い払った。どうやら途中から喋るのを忘れてしまったらしい。
「だいたいわかりました。で、滝本さんにここを紹介してもらった、そう言う事ですよね」
「ああ」
 俺はポケットからもうくしゃくしゃになってしまったメモを取り出した。
「帰り際にこのメモを貰って……」
 そのとき、不意に嫌な感じが蘇った。

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