08. 最高の笑顔
2009-11-02


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最終に近い電車は意外なほどの人で溢れている。慣れないつり革を持つ掌がじんじんと痛い。揺れる電車の中で器用に足を突っ張り、携帯を触り本を読み、心をここではないどこかに飛ばしてこの時間をやり過ごす人たち。ざわついた静けさはまるで牛小屋のようだ。僕は牛たちから目を逸らし窓の外に流れる景色をぼんやりと見つめている。

「俺は別に有名でもないからさ、ま、期待しないで」
 フリーの音楽プロデューサーだという彼は照れたような顔でそう言った。ラフな服装、見た感じ大して年も違わない。賑やかな居酒屋に着慣れないスーツで現れた僕は蛍光灯に照らされた彼の笑顔が眩しくて、何も言えずに俯いた。
 〓〓間違えんなよ。オレは紹介するだけだからな。
 トオルの声がふと、頭の後ろで聞こえたような気がした。

 がたん。
 急に電車が揺れる。つり革をぎゅっと握りしめてやっとのことで僕は身体を支える。

 バイト先に新しく入った男はひどく生意気だった。しかし奴が音楽業界の人間と親戚であることを知った時、僕はチャンスの女神の影を見たような気がした。僕は自分からその男、トオルの指導係を申し出た。親戚との約束を取り付けてもらえるまで、物分りのいい先輩を演じられるように。
 〓〓その服で行ってんの? レコード会社に? あーあ。人は見た目じゃないなんて嘘だからね。
 僕の考えはすぐにトオルに見抜かれたようだった。僕に対する敬語さえいつの間にか消え、喋る言葉はいちいち僕をむかつかせた。口を結んで黙りこくった僕を奴はあからさまに鼻で笑った。
 そんな言葉を聞きすぎたのかもしれない。ようやく彼に会えたその時ですら、僕は見えないトオルに付きまとわれていた。

 駅名のアナウンスが静かな牛小屋に響く。

 〓〓なんだこれ。CD-Rそのままのパッケージに油性マジックで殴り書きのタイトル。あのさあ、これ渡されてよし聴いてみよう、って思う?
 わかってるよそんなこと。心の中でトオルに呟きながら僕は彼にCDを差し出した。彼は受け取ると、こういう音楽?と笑った。綺麗な海の写真をあしらったジャケットがただ見栄えの為に適当に探して貼り付けたものだなんて言えなくて、僕はごまかすように笑った。

 窓の外に流れる灯が、不意に少なくなる。

「君をプロデュース? うん、それは今こうやって話をしたり後でCDを聞いたり、それでまた会いたいと思ったらこちらから連絡するからさ。ところでどういうのをやってんの? ああジャンルはこれ聞いたらわかるし、むしろコンセプトかな。君が音楽を通じて表現したいこと。つーか、価値観? 俺はそういうところを見て、ああ俺こいつと一緒にやりたいなぁって思うわけ」
 表現したいこと。
 僕がやりたいこと。
 〓〓聞いたよ、CD。何処かで聞いたようなっていうかさ。
 僕は言葉に詰まって目の前のジョッキで顔を隠すようにビールを飲み干した。

 電車がゆっくりとスピードを落とす。
 滑り込んだ駅は灯りすら薄暗い。

「デビューと言ってもね、この業界って入り口はひとつじゃないんだ。思いもかけないところから道が開くことだってあるよ。だから人脈はって言うとアレだけどさ」
 〓〓人間を手段としか見てないんだ。オレのことも、ね。
「例えば君が俺と出会うことで、君を通じて俺に何かいいことがあるかもしれないじゃない。それが人脈。でも俺にとってはここで君と楽しく飲めていればそれで十分いいことだったりして。あ、君ずっとひとりでやってるの?」
 〓〓邪魔だったんだろ、バンドメンバー。
「え、解散しちゃったんだ。残念だったね。何年くらいやってたの?」

 ホームを照らす蛍光灯が寂しそうに流れていく。
 ガラスはまるで鏡のように車内を映し出す。

 言葉を探せない僕は飲み過ぎていた。酔いは僕の頭を容赦なく掻き回し、トオルの声は頭の後ろでボリュームを上げていた。

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